オツベルの雑記帳

足が臭い。おしゃれ曲が好き。まともな文は書けません。

この夜

電球が太陽の代わりを果たしていることはなく、

人の内面は人工物では照らせないことがわかった。

 

シャンプーと煙草の匂いが混じっても、温度があっても満たされることはない。

 

自身への期待が飾りだと思った時にも、挫けることなく皆立ち上がっているのだろうか。

 

僕の目に写る人々は、そこで挫けて命を捨てたりはしていない。

まだ生きているということは、

きっとそういうことなんだろう。

 

だとしても、そういう人らに対して関心も尊敬もすることはない。

わかった、わかってない、やっぱり何もわからない。こんなのばかり。

 

 

 

レールの先は

 

もう大学に通っていない

 

この2年は自分の好奇心に素直に生きた。

 

国立大学の薬学部だったが、免許なんかどうでもいい。

 

世の大人は馬鹿にしてくるが、これでいい。

 

というか、私と同じ大学、同じ学部に入れもしない人達が何言ってるんだ。

 

国家資格なんてもんは所詮、転ばぬ先の杖だろ

 

若い人間が、若いうちから杖をつくな。

 

わざわざパフォーマンスが下がったときのために

 

若くて貴重なパフォーマンスの高い時間を割くな。無駄に杖を作るな。

 

そんな消極的な生き方をしてるから足腰が弱り、腰が曲がり、

 

結果杖が必要になっちゃうんだよ馬鹿馬鹿しい。

 

まあ私が自信満々に退学できるのは、いつでも余裕で入り直せるから、

 

転び始めてから杖を作れるから、なのもあるが、

 

それにしてもつまらん 世の中だ

 

 

 

 

 

 

 

 

流れる日々(8/15)

とても静かな朝だった。

起こされた、ではなく、目が覚めた、のが嬉しかった。アラームを一度も聞かなかったのはいつぶりだろう。

時間がさっぱりわからない。起きなくていいのか?と一瞬心がざわついたが、脳みその起動がWindowsXP並みに遅いため、今日が何曜日かもすぐには頭に浮かんでこなかった。

微睡みながら10秒かけて考えてみても、おそらく今日は週末…というところまでしか辿り着けず、脳内OSは活動限界を迎えた。仕事かどうかまではわからないが、仕事だったらごめんなさいという気持ちでまた寝た。

2回目に目覚めたときはもう部屋が明るかった。

いつもは朝日が顔に当たるようにカーテンを開いていて、起きたらすぐに天気がわかるのだが、今日はピッシャリ閉じている。それでも本日の空には雲一つないことがわかるほど、ピッシャリ閉じているストライプ柄が光っていた。

 

寝起きに汗ばむことがないのは、我が家の数少ない贅沢と言えるだろう。かれこれ8ヶ月はエアコンを止めたことがなく、常に24〜26℃が保たれている。

おかげで今日の寝起きも快適であった。ありがとう霧ヶ峰。ありがとう自分。

それから服を着替えてないどころか、腕時計まで着けたままだったことにやっと気づいた。

寝ているというか倒れていたのか。

寝る気じゃないタイミングで記憶が途切れているとき、それは寝ているというより気絶に近く、限界に達して倒れているだけだから疲れが取れていないのだという。

満足いく睡眠がとれたと喜んでいたところにこれは少し悔しいが、ゆっくり起きれたので帳消しということにしておく。

 

ベッドから這いずり出たものの、空腹が辛すぎてご飯を作れないので空腹、というパラドックスに閉じ込められていたため、秘蔵のヨーロピアンシュガーコーンを食べた。

たった一つのアイスが、人を矛盾の輪廻から解放してくれることもある。皆も心に留めておいて欲しい。

動けるようになったので、半額マグロ柵を雑に切り、わさび醤油に漬けて、マグロの漬け丼にした。真ん中には、あえて黄身ではなく全卵を乗せるのがミソ。こいつをカッカと掻き込んだあと、食後のデザートとして結局またヨーロピアンシュガーコーンを食べた。

まだ起きて数十分だが、すでに煩悩に負けまくっている。

 

デザートの後は食後の一服。

今日は吸いたいというよりも、吸わないと損だなという義務感のような気持ちで火をつけた。

ゆっくり起きて、ゆっくり珈琲か紅茶を入れ、

それと一緒に好きな煙草を吸う。

少し前までは素直にそれを幸せだと感じていたが、今では''自分は幸せなんだ''と自己暗示をかけるための儀式になりつつある。

どうして。

 

実際煙草は美味しかった。

そして毎度のことだが、いい天気だから外に出ようと意気込む気持ちは、ヤニクラで四肢に力が入らなくなりふにゃふにゃになった肉体に負けてしまう。

それでも、風呂に入る、服を着る、という工程を1時間に1つずつこなしていき、ギリギリ陽が出ている間に家を出ることができた。

誰かとカフェかスイーツ屋さんに行こうと思っていたが、誰からも返事がなかったので、先日貸し出しカードを作成したばかりの市立図書館で本を借りることにした。

いつもどおり原付をガンガン飛ばしていると、いやに道路はスカスカで、なぜか交通誘導をする警察がわんさかいた。

 

、、、そうか、盆か

どうりで誰もLINEの返事が返ってこないわけだ

そりゃ全国同時実家帰省イベント当日だもの、ね

 

よくないことに気づいてしまった。深く深呼吸した。

 

皆が皆、そろって家族の元へ帰り、家族行事をしているんだなという実感が、喉と両手首をギュッと掴んだ。

家族と縁を切って一人で生活している自分には、そういう実感は精神的にかなりクるものがある。おかげで運転中なのに焦点が合わなくなってきた。道路がスカスカで本当によかった。

 

夕陽だ、夕陽を見よう

 

心がおしまいになっているときに決まっていつも訪れる、展望スポットがある。そこに行くしかない。それが無理ならどっかに突っ込んで死のう。

ついさっきまでのまったり休日モードの思考回路が、気づけばすっかり棺桶直下ダイビングおしまいモードになっていた。

 

思考半停止の狭窄した視野で原付を飛ばしていた私の前に、進入禁止の立札と、性格の悪そうな警官が立ちはだかった。なにやら盆恒例の爆竹撒きが行われるのだという。(私が住んでいる文明未開の地では、大通りで公的な爆竹爆破フェスティバルが行われる。)

死者の魂と生きている人間の命とどっちが大事なんだコノヤローという気持ちでスロットルを握る手に力が入った。(もういい!突っ込め!)

 

 

こうして、気づけば市立図書館に着いていた。

 

結局人間ってのは死ぬときには、死ぬ行動を起こす元気が必要なので、人はそう簡単には死なないし、死ねない。

本当に自分の生命力が強いのか弱いのか、いまだによくわからない。あんまり記憶がないが、たまたま着いてよかった。(実際に一昔前まで抗うつ薬を服用していた鬱患者ではある。)

結局お目当の本は貸し出し中であったので、大好きな江國香織と、近くにあった大宮エリーの本を借りた。

 

メンタルおしまいモードをどうにかしないといけないので、せっかくなら優雅な時間と共にこの本を読もうと、煙草が吸える喫茶店を訪れた。

外の壁にはツタが茂っていて、窓はステンドグラスでできており、机一つ一つにアンティークランプが置かれている。

入ると喫茶ですか?お食事ですか?と聞かれるのがいつもの流れだ。

そこは喫茶としてカウンターに座った場合のみ喫煙可であったので、店主に 喫茶のカウンターで と伝えたが、普通にテーブルに通され、禁煙になったと告げられた。もうしょんぼりである。

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ショコラティーをしょぼしょぼと飲みながら、江國香織の本を読んだ。

一節目から主人公がバカスカ煙草を吸うので、自分も吸いたくてたまらなかった。

江國香織の世界の慕情は、純粋だけど純白ではないところが好きだ。

自分も誰かを慕いたい、慕われたいな、

なんで今日もこんなに孤独なんだろうか

と、顔を上げて飴細工の窓を眺めていたら、ちょうど椅子が軋んだ。きっと苦笑いされている。

四節目を読んでいるところで、店主が閉めたそうにしていたので、4杯目はガガっと飲んで店を出て、仕方なくマックへ移動した。

まだまだ喫茶店気分を続けたかったので、ここでもホットティーを頼んだ。Mサイズにはティーパックが2つ付いてくることを初めて知った。取るに足らない些細な幸せだが、最後にこういうものがあってよかった。

 

こうして8月15日は幕を閉じた。

今日も大した特記事項はないまま終わった。

 

きっとこれからも、特別じゃない日が続く。

せめて少しでも幸せの予兆が見えたなら、生きることに喜びを感じるはずだが、日々はその予兆を待ってはくれない。

ずっとずっと流れていってしまう。

それを覚悟の上で、一人でどこまで生きていけるのだろう。

 

 

優しさは虚しさになった

将来は優しい人間になろう、と決意したのはたしか小4のときだと思う。

そして、そう思い至ったきっかけは二つある。

 

単純に人から優しくされて嬉しかった、だから自分もそうなろう!みたいな理由かと思いきや、小4当時から既にオレは愛情に飢えていて、どんな手を使ってでも愛情が欲しかった。

そして自分を愛してくれる人を見つけるためには、より好まれる人間になるべきだ、それには打算的な成長をしなくては。つまり大衆から愛される優しい人間とやらにならねば。そう思った。

これが一つ目の理由。

 

愛情、優しさ、思いやりみたいな言葉は存在しない家庭に生まれたが、幸運にもそんな環境にいる自分を客観視することができたので、親の血筋や教育に飲まれず、純粋悪に染まらずに済んだ。

これが自分の支えだった。

悪に育てられても正義の心を持っているんだ!

他人を卑下して攻撃するしか脳のない家庭で育っても、ちゃんと困っている人には、見返りを求めず手を差し伸べることができるんだ!と。

これが二つ目の理由。

 

そしてこんな環境でも、頑張って優しい人でいられたら、

親から痛めつけられても周りの人には苦労は見せず

ニコニコ優しく接していられたら、

きっといつかちゃんと、誰かから愛されるんだと。

そう思って、それだけを支えにここまで生きてきた。

 

それから16年経ってようやくわかった。

これが全然間違いだった。全くの見当違い。

 

冷静になってみると、ただ優しい人になるだけでひとから愛してもらえるだなんて、考えが甘すぎた。

これはただ自嘲しているわけではなく、本当に、実際に見通しが甘かった。

 

人は成長に応じて、もっと内面を見るように変わるのだと思っていた。世間に期待しすぎていた。

 

てっきり大学生くらいからは、(全員とは言わないが)一部ルッキズムから脱する人もいると思っていた。

22〜24にもなって、顔だけで判断するアホはいないだろう。幾多の人生経験を積めば、どんなバカでも他者の内面に目を向けるだろうと。

しかしそんな予想とは裏腹に、顔面至上主義は続いていた。これが既に致命的なミス。他者への失望。

(私の大学が田舎だということもある。田舎はイケメン人口がかなり少なく、女はイケメンとの交流を経験できないため、ルックスへの執着から抜け出せない。

一方都会の私大の一女なんかは大体三〜四男のイケメンクズ男に弄ばれて、顔面で人を判断してはいけないと入学後すぐに骨身に染みる。※理由はあくまで持論だが、現状に変わりはない。)

 

しかしオレの失望はこれだけに留まらない。

なんなら、皆、年代が上がるほどに内面に目を向けるどころか遠ざかっていく。

ここで完全に心が折れた。

ルッキズムだけでもうんざりだと言うのに、

20代中盤〜アラサーになると、顔に加えて、

金、職、地位、世間体、などが評価基準に追加されていく。

 

物理的な外面に加えて、社会的な外面まで…

こいつら、いつになったら内面に目を向けるんだ…

 

アラサーになっても、小学生の''足速いやつがモテる''が姿形を変えて存在しているんだよと、小4の自分に教えてあげたい。

 

 

ここまで読んだ人は、「ちゃんと内面を見てくれる人だっているよ!!!」と反論したくなるかもしれない。

大丈夫。まともな人間だって0じゃない。

いるにはいるさ、わかっている。

 

そういう話ではない。

 

それ以外の人が、多すぎるんだ。びっくりするぐらい。

 

だからオレの信念が多くのコミュニティで通じないし、それならせめて関係のないところで生きていてくれればいいものを、彼らは急に現れて、オレの信条をぶち壊し、大事にしていた人もかっさらっていく。

 

女を殴る男。女に貢がせるだけ貢がせて、金を毟り取ったら捨てる男。

そんなクズ男に惚れる女。クズ男に乗り換えるからと捨てられる男。

顔とか全然タイプじゃなくて内面で決めたと言っておきながら、どう見ても顔と収入で選んでいる女。

医者の卵捕まえたから、と言って、身を削って長年尽くしてくれた男を平気で捨てる女。

逆に、相手がイケメン公務員だからって収入や世間体で満足して、ボロ雑巾のように扱われても付き合い続ける女。

 

こんなんばっかりだ。なんなんだ。

 

しかもこんな奴らに限って見た目はまともに見えるし、社会的に評価されていて、友人や同僚からの評判もいい。

 

 

誰を、何を、信じたらいいのか、

もうこの歳になって、何もかも、わからなくなった。

 

 

【他人を想いやれる優しい人間であれば、

   いつかきっと大事にしてもらえる日が来る。】

この一点に全賭けしてしまっていたから、それが叶わないとわかったときに全部崩れてしまった。

 

もう、人に優しくすることはやめた。

搾取されるだけなら、優しくしても余計みじめになるだけだ。

 

たまに、残りカスみたいな、カラダに染み付いた思いやり行動みたいなものが反射的に気遣いを発揮してしまったりする。

この前も、そうやって助けた相手の女性は「ありがとう」と言ってくれた。

でもオレの優しさに「ありがとう」と言ってくれた女は別にオレのことは愛さないが、金をせびったり殴ったりする男の家には帰っていく。

あわれで、みじめだな。オレも、こいつも。

 

 

yogee new waves のclimax nightの歌詞に

「目が見えなくとも姿、形、色がわかる」

という歌詞がある。

これは、二人共に盲目のカップルが、互いの顔を触り合って、確かめ合って、お互いを(見えないけど)見つめ合って笑っている様を見て書いたらしい。

これは普通に目が見えている人なんかじゃ、到底できない、敵わない愛し方だと思う。

 

オレはこんな世界に生きたかった。こんな世界の中で優しい人間になりたかった。

 

 

 

無理なんて言葉、書き方から忘れて

こんにちは。

‪突然ですが、5月末の公認会計士試験を受けることにしました。

試験は

 

5月or12月(短答式試験 : マークシート)              

      ↓合格

    8月       (論文式試験 : 記述式)

              ↓合格

   

      資格取得👏

 

という流れです。

受験資格のいらない、一般の人が受けることのできる資格では、最高難易度と言われていて、公認会計士を目指す人の多くは資格専門の予備校に通うらしく、およそ2年の就学を経て受験するのだそうです。

今日は2月1日。この時期から独学で勉強を始めて合格した人とかいるのかな〜と調べたら、かつて東大首席の人が達成したらしく、ビリギャルみたいな本になってました。

鼻血がでますね。‬

 

よっしゃ!じゃあ残り3ヶ月半、朝から晩まで勉強するぞ!と思っても、なんとフルタイムのバイトが週の半分は入ってるんですよ。

生きるって大変〜〜〜勉強だけしたい〜〜

 

つまり、東大首席の人の半分か2/3ほどの学習時間で合格ラインに達する必要があるわけですね。

しかも5月の短答式試験は約1万人受けて受かるのが1000人ほど(短答式免除者含む)なので、合格ラインは上位1割。

なんと僕は今日から始めて、たかが週3日ほどの勉強で、1年半前から勉強してた人の9割を薙ぎ倒さなければならないということ。

 

はっはっは!

 

そりゃもちろん、これまで‪の人生でも多少無茶なことはありましたよ?

・麻酔なしで頭部を縫う

・合格可能性18%の状態で難関中学を受験して合格する

・無一文のまま長崎→東京間のヒッチハイク

とか。

でも今回のがおそらく人生最大の無茶ですね。

 

でも、あくまで''無茶''です。

''無理''って言葉は使わないです。

 

も!ち!ろ!ん!実現できない可能性が高いことなんて重々承知の上ですよ。

仮に落ちたとしても、この経験はいずれ絶対に役に立つし、それに12月の短答式を受けるかもしれないし……

って、そんなことはどうでもよくて、

 

これを読んでいるの人の大半は「どーせ無理」と思うでしょう。でも僕は「どーせ無理」と言う人間が1番嫌いです。

 

昔、こんな講演を聴きました。

そして僕の生き方が変わりました。

 

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「どーせ無理」

これは人の自信と可能性を奪ってしまう最悪の言葉です。

失敗をマイナスと捉える大人が、諦め方を子供に教え、諦め方を学んだ子供は、自分に自信がなくなるんです。

自分なんて………と思うんです。

生まれたときから諦め方を知っている人間なんて、この世に一人もいないんです。

やったこともない大人が、やったこともないくせに勝手に出来ないと決めつけて、「どーせ無理」と言うんです。

 

やったことないことをやってみましょう。

 

思うは招く。思い続ければいつか叶う。

皆が夢を語り合って、「どーせ無理」じゃなく、「だったらこうしてみたら?」と言うように変えましょう。そうすれば、全員の夢が叶ってしまいます。

全員有名人です笑 素晴らしいですね。

 

「思うは招く」 

植松努さんの演説より一部抜粋、要約。

Hope invites | Tsutomu Uematsu | TEDxSapporo

リンク↓

https://youtu.be/gBumdOWWMhY

 

僕の根底に流れている考え、価値観です。

たった20分の演説なので是非見てほしいです。

 

僕の両親も、結果が既にわかっていることしかさせてくれませんでした。お前はガキで、考えが甘いし、どうせ無理だ、と。

僕はガキの甘い考えで、甘い考えなりに動いて、そしてそれじゃ通用しないようなことにぶつかって、ちゃんと失敗を経験したかったです。頭ごなしに否定されるんじゃなく、経験してから納得したかったです。

その反動なのか、今では思いついたことは全て行動に移す人間になっちゃいました。

 

話しが長くなりましたが、

やったことないことをやってみます。

ちょいちょい馬鹿をやっている僕ですが、またしばらく馬鹿をやるという話でした。

無茶だけど、無理じゃないです。

 

 

''寂しさ''の夢 (今日見た夢の話)

 

東京。

 

出会いがない。

なんのコミュニティにも参加していなければ、

当然、ここにいる1300万人には触れられない。

 

工場の事務所の跡地をカフェにしている店があり、その窓際の席で、木漏れ日に打たれ笑っている女性の写真を見た。彼女が欲しいと思った。

しかし自分から人を好きになるのはやめようと、そう誓ったばかりで、腕にも''誰のことも愛さない'' と、どこかの国の言葉で彫ったばかりだった。

 

ふとした瞬間に寂しくなる。寂しくなった瞬間に人を求める。求めて、手に入らなくて、虚しくなる。寂しさを埋めようとして、結局寂しさと虚しさを両方抱えてしまうなら、寂しさだけを抱いていたい。そう思って彫った。

今、それを思い出した。彫っておいて良かったとつくづく思う。

これが止めてくれなきゃ、また繰り返しなんだ。

 

寂しさは埋められない、埋めるものじゃない。

そう言い聞かせながら、それでも口からは寂しい、寂しいと溢れる。

 

そしてそのまま横になり、また夢を見る。